・好きこそものの上手なれ ⇔ 下手の横好き
・一石二鳥 ⇔ 二兎を追うものは一兎を得ず
・果報は寝て待て ⇔ 思い立ったが吉日
・嘘つきは泥棒の始まり ⇔ 嘘も方便
・君子危うきに近寄らず ⇒ 虎穴に入らずんば虎子を得ず
・渡る世間に鬼はなし ⇔ 人を見たら泥棒と思え
・二度あることは三度ある ⇔ 三度目の正直
・三人寄れば文殊の知恵 ⇔ 船頭多くして船山に上る
ことわざって、まったく正反対のことを言っているものがいくつもありますよね。
あれは、自分の心を誘導するためにあるのです。
私も子供の頃は、どうして正反対のことわざがあるのか理解できませんでした。
どちらが正解かわからないのでは、教訓としてはまったく役に立たないじゃないか、結局自分で考えろということかい!ってね。
確かに、自分で正解を出さなくてはならない、という点についていえばまった くその通りで、人生ってやつは、答えはひとつではないですからねぇ。
やりようによっては、正反対のことをやっても、どちらも正解にたどり着ける 可能性すらあります。
とはいえ・・・
正反対の格言があるということの、本当の意味はそこにあるのではなく・・・
自分の情動を理性に従わせるための、道具としてとても役に立つものなのです。
たとえば、あなたが嗜好する行動が、世間的にはとても恥ずかしいことだとし ましょう。あなたの理性では、それをとてもやめたい。でも、行動は理性より情動の働きに流されてしまいます。
なんの理由もないけど、どうしてもそれをやりたい!という情動が発動しかか っている。さあ、どうするか。
そこであなたは自分に言い聞かせるのです。そんなことをしては「末代までの 恥である」と。
末代まで、という具体的なイメージ付けによって、単なるあいまいな恥が、ど れほどの大きな恥であるか、また、その恥が自分のみならず子孫にまでおよぶ という影響力の大きさ。それらがこの言葉に大きなインパクトを生み出し、あなたの行動に強くブレーキをかけてくれます。いわば暗示のようなものです。
日本人は特に江戸時代、漢籍を尊重し、孔孟の書などを「素読」させる文化が あったと聞きますが、その時代の肚のすわった人たちというのは、きっとその 素読の中で心に銘じた文言を自分に言い聞かせることで、私心を離れ正しい行 いを選択することができたのでしょう。
あなたも、自分が正しいと思っていることを、どうしても嫌がっているもう一 人の自分に気づいたら、格言の力を使ってみてはいかがでしょうか?
本日は、東京都世田谷ちゅうしん整体院 村山先生のコラムを紹介いたしました。