◆不遇の人、ソクラテス
ソクラテスはその真摯な学究の姿勢を
理解されず、最後は厳しい判決に従い
自ら毒杯を仰いで死にました。
ガリレオも、天動説がキリスト教の反感を買い
危険視され、幽閉されたと覚えている人も多いのではないでしょうか?
体制に受け入れられなかったという点で ガリレオは、ソクラテスなみに不遇であったと
思っていらっしゃる人も多いかもしれませんが
事実はだいぶ異なるようです。
◆挑戦的な態度をとり多くの敵をつくった
実は、ガリレオは反抗的な態度を見せながらも、
常にアカデミックな権威の一員になることを望んでいました。
そもそもの気質として、権威ある側にいたいという思いがあったようで
その点で、反体制派とはいいがたい人物であるといえます。
それでもなお、反体制的な印象を与える理由としては
自分の論敵に対しては、相手がどのような目上の立場にあろうとも
遠慮なく辛辣な批判を加えたからにほかなりません。
その点で、体制派にかみつく性格をもちながらも
自分はよき地位を得たいという
両面的な性格の持ち主であったといえるでしょう。
◆ガリレオの職歴
はじめはアルキメデスの考案した物質の比重と浮力に関する原理を 『小天秤』という書にまとめて発表し、それが認められて数学者として アカデミックな体制派に受け入れられました。
これがガリレオの数学者としての第一歩です。 その結果ピサ大学の準講師の職を得ましたが
アリストテレスの、重い物体は早く落下するという考えの信奉者を痛烈に批判し 同大学の実験を握る人たちの反感を買い、
任期の 3 年が終了すると、継続雇用されることなく解任されてしまいます。
しかし、これがかえってガリレオには幸いします。
リベラルな独立国家ベネツィアにて パドヴァ大学に、それまでの 3 倍の給料で迎えられたのです。 その後 18 年間をこの大学で過ごすことになります。
◆パドヴァ大学で進めた研究の成果
その間に、物体の落下速度に関する研究を進めると同時に 当時はまだ噂だけで実物を目にすることができなかった望遠鏡を メガネのレンズをもとにしてみずから作り上げ 精度を高める努力をしながら 天体の観測を精力的に行いました。
こうして、木星の4つの衛星を発見したり、 金星や土星の運行を観測することでコペルニクス的な 太陽を中心とする星の運行に確信をもつようになります。
それらの発見を『星界の報告』と題して小冊子にまとめ
故郷トスカーナの大公である、メディチ家のコジモ 2 世に献呈しました。
ちなみにこのとき発見した木星の4つの衛星も メディチI、II、III、IVと名付け、この名は 2 世紀の間使われ続けました。
その褒美として、 故郷トスカーナにて宮廷付きの数学者と哲学者の地位を与えられ 帰郷を果たすことになりました。
◆教皇の不興を買った経緯
ガリレオは、これらの研究を通じて 徐々に太陽を中心とするコペルニクスの説を 支持する立場をとるようになりました。
しかし、当然ながらそれに反発する科学者は大勢おり ガリレオはそれらの反対者に対して、常に辛辣な反論を行いました。 ここでも多くの敵をつくってしまうのです。
そして、ついに最も強大な敵である、教皇ウルバヌス 8 世の不興を買ってしまう事件 が起こります。
その経緯は次のようであったといわれています。
教皇を怒らせたのは、ガリレオ 68 歳の出版になる『天文対話』でした。 その内容はもちろん、太陽を中心とする惑星の運行を支持するもので 地球を宇宙の中心と考える当時の教会の立場に真っ向から対立するものでした。
実はこの 32 年前に、イタリアの哲学者ジョルダーノ・ブルーノが宇宙は無限かもしれ ないと
示唆したことを糾弾され火あぶりの刑に処されていることを考えると このガリレオの行為も非常に危険なものであることは、当人も認識していたはずで す。
したがって、ガリレオ自身も、この本を上梓するにあたっては 事前に原稿を異端審問所の検閲官に提出し、意見を仰いでいるのです。 その際、「太陽を中心とする」という考えが「仮説」として示されるのであれば出版を認 める
という許可を得ています。
実際、ガリレオもそれに従ったのだが、実は別の点でこの書には 教皇の機嫌を逆なでする仕掛けがあったのです。
その仕掛けというのは、
この『天文対話』という書は対話形式によって、ガリレオの考えが わかりやすいように述べられていて
ガリレオの考えを代弁する人物「サルヴィアディ」と ガリレオの意見に反対する論敵を象徴する人物「シンプリチオ」の対話の中で サルヴィアディの考えを、愚鈍な雰囲気をまとったシンプリチオが 最後には反論できずに、意見を受け入れさせられるというストーリーになっています。
このような形式の中で、愚鈍な役割を演じさせられる人物「シンプリチオ」に 教皇の意見を代弁させてしまっているのです。 いわば教皇を愚か者として扱っているように見えるわけで 異端審問所の検閲を通っていたかどうかとは別問題として このことが教皇の逆鱗に触れたと考えられます。
こうして、物語としてよく知られている
枢機卿 10 人が尋問する法定に出廷するために ガリレオはローマへと呼び出されることになります。
そして、拷問によって強制的に 地球が太陽の周りをまわるという考えを 「公然と捨て、呪い、ののしる」よう強制された上に 残りの人生を自宅で幽閉されることになったのでした。
こうしてガリレオは、事前に検閲を通しておきながらも 教皇に対する配慮を欠いた表現形式をとってしまったために 教皇の気持ちを逆なでして、自ら災いを招いてしまったのでした。
◆自宅幽閉はむしろラッキー?
考えてみると、ジョルダーノ・ブルーノが火あぶりになっていることと比べれば ガリレオに対する処置はいたって穏やかであったといえます。
単に殺されなかったというだけではなく 実は、幽閉の処置そのものが、厳格に執行されなかったのです。
実際、彼はまずトスカーナ大使の家に客として迎え入れられ その後、シエナの大司教の住まいに移り そこで、続く著書『新科学対話』を書く便宜を与えられました。
やがてアルチェトリの自らの別荘に戻ってからも 『新科学対話』を書き続けました。
幽閉前のガリレオは、豪勢な住まいに住み 豪商や風流人たちと好んで交流していましたから
かえって、幽閉されたおかげで著作活動に専念することができ そうしてはじめて『新科学対話』が日の目をみたといえるでしょう。 そうでなければ、ガリレオが人生をかけて研究してきた 天文以外の、物体の運動や、材料力学、静水力学といった分野における 成果をわかりやすく書にまとめる機会は得られなかったかもしれません。
こうして書き上げられた『二つの新しい科学をめぐる対話(新科学対話)』 は密輸出されてオランダの出版社ルイス・エルゼビアによって印刷され 世に送り出されました。
エルゼビアはガリレオの著作がイタリアだけでなく他の国でも 教会によって出版が禁止されていることを知っていたにもかかわらず 危険を冒してこれを印刷したのでした。
その甲斐あって、この著作は 科学を近代化の道にのせるベストセラーとなりました。
◆まとめ
ガリレオは教皇への配慮を欠いた表現により反感を買い、 自宅幽閉という罰をうけたものの、 その罰は、暮らしの快適さを損なうことなく むしろ、絶好の著作をまとめる静かな生活を与えてくれました。
これほどの幸運に恵まれる科学者もそうはいないのではないでしょうか。
そして、我々もまた、そのガリレオの残した知の遺産の恩恵を受けているという点で 当時の教会の処置は、ガリレオにとっても、近代科学にとっても 多大なる恩恵をもたらしたといえるかもしれません。
このような恩恵を受けたガリレオは、数々の敵を作ったにもかかわらず 生涯を通じて、(ソクラテスとは比べるなどとても似つかわしいとはいえないほど) 社会的にも恵まれた生活を送る幸運に守られたといえるでしょう。
本日は、東京都世田谷ちゅうしん整体院 村山先生のコラムを紹介いたしました。