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只管打坐と中空の竹

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◆道元の只管打坐

 日本禅宗の一宗派である曹洞宗の開祖、道元禅師が掲げた坐禅に向かう基本的な 在り方のことです。

一般にはただひたすらに座るという意味に解釈されています。

といいますのも、臨済宗のように公安とよばれる、一種のなぞかけのようなものを考 え、その謎そのものになりきることを坐禅の方法として取り入れるものもありますし

坐禅とは言えないかもしれませんが、瞑想という大きな枠組みで考えれば、空海の真言宗に代表されるような密教的な方法として、明確になんらかのイメージや言葉に注意を集中させるような座り方もあります。

そのようなバリエーション豊かな瞑想法の中で、もっともシンプルといえるのが、道元 の只管打坐という方法だといえましょう。

 

◆管とはいったいなんだろうか?

 しかしながら、この只管打坐という言葉は不思議な言葉であります。 ただ座るということでいうなら、なぜ「管」という一字が含まれているのでしょうか? 素直にとらえるなら

ただ管になるように(管のようになって)座る

という意味だと読めます。 この管とはなんなのでしょうか?

小山一夫氏の『悟りに至る「十牛図」瞑想法』には、その全編を通じて、「只管打坐」と いう文字使いの意味について、的を射た説明をしてくれていると思われるので、ぜひ 皆様にご紹介したいと思い、引用させていただきます。

同書によれば、ここでいう「管」というのは、体内に流れるエネルギーの通り道であり チベットの古典「マハムドラーの詩」に登場する「中空の竹」に相当するといっていま す。 ヨーガでいえばシュスムナー管とよばれる、最も重要なエネルギーの通り道とも解釈 できるようです。

「中空の竹」というのは、わざわざ中空といっています。この中空というのは、節がな いということを意味しています。
当然のことながら本来の竹の内部には節がある。

この節を貫通し、取り除き、エネルギーが滞りなく通れるようになっている状態こそが 中空の竹、すなわち、節のない竹ということのようです。

『正法眼蔵』(辨道話)には 「いまをしふる功夫(くふう)辨道は、証上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるな り。その超関脱落のとき、この節目(せちもく)にかかわらむや」

とあり、この「節目」こそ、貫通するべき「節」を意味しているのだという解釈のようで す。

同書によれば、このような「中空の竹」の状態を実現するのは一朝一夕にはいかず、 長い期間をかけて、師とともに坐り続けることによって、師のエネルギーを受け、シュ スムナー管の内部を浄化し続けることで、ようやく達成できるとのことです。実に興味 深い話です。

著者はこのことを通じて、ヨーガにおいても、坐禅においても自分に適したエネルギー を発してくれる良師のもとで修業を積まない限り、禅定にたどり着くのはむつかしい と、繰り返し述べています。

道元もそのことを言っているとして以下の文を引用しています。

「自受用三昧、その標準なり」(坐禅をするにあたっては、完全な受け身になってエネ ルギーを受け入れるのが基本である) 「この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり」(そのようにエネルギーを受け取る 境地に至るためには、良師のもとに参禅するのが、正当的な方法である) 『正法眼蔵』(辨道話)

つまり、良い師のもとで、完全に受け身(中空の竹)となって、師からのエネルギーを 受け取ることが、正しい坐禅の方法であるといっているとの解釈です。

同書では、 最終的に、この中空の竹が十分に浄化されたうえに、エネルギー(神気)で満たされ た状態が、『正法眼蔵』では「露柱」と呼ばれている、と解釈しています。仏教用語とし ては、「露柱」とは仏性のことと解釈されるのが通常のようです。よって、ここでの解釈 は世の中一般にはまったく知られていないものといえます。しかし、禅定に至る過程と して位置付けると、小山氏の解釈は非常に具体的で的を射ていると感じます。

なお、最終的にはこの「露柱」は、内部に真我を呼び込み、安定させる場となります。 それによって、真我、さらにはアートマンを目撃するに至るわけですが、詳しくはぜ ひ、同書を手に取ってご覧ください。 これは、本書のテーマである「十牛図」においては、とらえるべき牛そのものでありま す。

また蛇足ながら、このような象徴として「柱」は、古来より神を数えるのに、一柱、二 柱・・・という単位を用いることとも関係しているのだと述べています。

 

実際は只管打坐より祗管打坐

 ちなみに、同書によれば、 道元自身は只管打坐よりも祗管打坐という文字使いを多く用いているそうです。

「祗管に参禅辨道すべし」(『普観坐禅儀』) 「不離叢林昼夜祗管跏趺坐して」(『正法眼蔵』三昧王三昧)

「祗管坐始得」(『正法眼蔵』行持)
「祗管に打坐するのみなり」(『宝慶記』)
「天童祗管打坐」(『永平広録』) また、「只管打坐」という用語の出典としてよく引かれるな『正法眼蔵随聞記』において も

 「古人の行履に随て祗管打坐すべきなり」 というように「祗」の文字使いを用いているところがある。 もし、「只管打坐」といってしまえば、「ただ、管(中空の竹)になり切って、坐る」 という意味になりますが、
ここで「祗」という文字に置き換えるとどうなるでしょうか? 「祗」というのは、神を暗示する字義をもっていて、意訳すれば「恐れ謹んで、中空の 竹となるべく坐る」と解釈できるとしています。 「只」よりも「祗」のほうが、より重みの増した意味をもっているといえましょう。 しかし、いずれの文字を使ったとしても、重要なことは「管」=中空の竹、になって坐る ということであり 一般に流布している「只管打坐」=ただひたすら坐る、という解釈からは想像もつかな い 非常に具体的で、エネルギー的なことを表現した語であることは、もっと知られてもい いことなのではないかと個人的には思います。

 

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本日は、東京都世田谷ちゅうしん整体院 村山先生のコラムを紹介いたしました。